新湊大橋
新湊大橋は、富山港と伏木港を結び広域幹線道路と連絡することによって、コンテナ貨物を中心とする物流の円滑化および効率化を図り、また、年間約80万人にのぼる海王丸パークの来訪者など、港湾利用者の利便性を向上させることを目的としています。
さらに、東西の埋立地を結ぶことによって、射水市新湊地区の一体的な発展を促進し、地域の活性化を目指します。
新港大橋
高岡市と射水市を結び、海王丸パークへの連結道路に接続しています。
新港大橋は市発展のシンボル「海と貿易」をテーマとして構成されています。 4本の親柱には、波に浮かぶ地球がデザインされています。 重要港湾伏木富山港のシンボルとなるように演出されています。
ニの丸橋
大正9年に完成。放生津城爾ちなんで名付けられました。
その後昭和35年に架け替え、平成19年に再度架け替えた最も新しい橋です。
橋の特徴は放生津小学校の生徒によるデザインで、放生津城をイメージした高欄及び親柱で周辺環境にも適したデザインとなっています。
放生津橋
その昔、1493年越中放生津に御座(おわ)され、足利善材(よしき)政権を樹立し、放生津は政治・文化の中心として栄えていました。
高欄には戦いに赴く足利善材や上京する様子を描いたパネルがはめ込まれています。
また、室町幕府10代将軍足利善材のブロンズ製彫刻が親柱に設置されています。 市では、史実を広く市民に知ってもらおうと橋の整備がなされました。
東橋
ベンガラに塗られたこの橋は周囲の家並みにもよく調和して、平成6年度手作り郷土賞を受賞しました。「渡るだけでなく、立ち止まり、時を過ごす憩いの橋」という、独自の機能を持つ橋としてよみがえった橋であります。スペインの建築家セザール・ポルテラ氏に基本デザインを依頼し、全国でも珍しい歩行者専用の切妻屋根付き橋であります。橋の両端には、ガラス張りでベンチを備えた休憩室があり、屋根には太陽と月をかたどった風見鶏がつけられています。行き交う漁船などを眺めることができ、日が落ちて明かりが点されると休憩室全体が大きな提灯となって浮かび上がりとてもきれいな景観を見ることができます。
山王橋
平成2年3月に完成。 橋の4箇所に丸みのあるバルコニー風の半円形のアプローチをもつソフトな形状に、郷土出身の竹田光幸氏制作の大理石で作られた4基の手の彫刻。1つ目のテーマは、「人」 手はあたかも人のように、手のもつ豊かな表情を、そして生命感あふれるやさしさを表現した作品です。 手とともに市の花ケイトウ、テッセンの花が刻み込まれています。2つ目のテーマは、「心」こことの意志の強さを表現したもので、大地に置くこぶしはその力強さを表しています。 ハマグリ、カニ、巻貝が台座に刻み込まれています。3つ目のテーマは「愛」 和の心と自愛の心を表現したものです。 小鳥が川面の流れを見ています。4つ目のテーマは、「夢」 天を指す人差し指は、希望と夢を表現しています。 宇宙星座と金の星が刻まれています。そして、この橋の欄干には音符の音階がデザインされており、歩道側には童謡の「海」のメロディが、車道側には童謡の「キラキラ星」が刻まれています。
神楽橋
新湊市(現射水市)が「魅力あるまちづくり事業」の一環として昭和60年に完成。 高欄には、地元新湊出身の工芸作家大伴二三弥氏が、新湊市の木である松や市の花ケイトウ、曳山、カモメなどが描かれた72枚のステンドグラスがはめこまれています。
朝日や夕日の光がこのステンドグラスを通して虹色となり、幻想的な雰囲気を漂わせてくれます。別名「虹のかけ橋」とも呼ばれています。夜になると街路灯の光と色が映す川面ののさまは格別なものがあります。
中新橋
まちづくり交付金で平成21年6月に歩行者専用橋として架け替えられました。中町(現在の放生津町)と新町(現在の中央町) を結ぶ橋である事からそれぞれの頭文字をとってこの名がつけられました。
橋のデザインは、江戸時代に北前船の寄港地して栄えた内川の歴史を今に伝えるべく北前船をイメージしたものであり、周囲の景観と調和するように天然の木材による外装を施してあります。
中の橋
1650年にかけられた橋で西橋と共に350年の歴史を持つ古い橋の一つです。この橋は、古橋と西橋の中間に位置していたのでこの名がつきました。
新西橋
全長23m・幅10mのこの橋は平成5年に完成。内川に架かる橋では最も斬新な橋と言われています。文化勲章を受章した金属造形作家・蓮田修吾郎氏がデザインしたモニュメントが施してあります。黒褐色の金属と灰色のコンクリートが実によくマッチして現代感覚となっています。高欄や橋詰めの両側にあるモニュメントは、垂直に伸びた3本の角柱が上部で巧みに連携し豊かなイメージを醸し出しています。
欄干には、2種類のパネルを交互に配置し、金属の引き締まった美しいコントラストが周囲に映えています。表面に錆が生じると焦げ茶から美しい黒褐色に変化します。生活観がただよう漁村風景の中でひと際目立った存在であります。
湊橋
1821年3月28日の放生津大火は、瞬く間に1150戸を焼き払い、湊口に逃げた住民は橋がなかったため、48名も焼死しました。この地獄絵さながらの光景は加賀藩検視役人の同情を呼び、長さ30間(55m)、幅9.5尺(2.9m)の板橋が架けられ、俗に「おたすけ橋」と呼ぶようになりました。 古新町と奈呉町を結ぶ唯一の橋となりました。明治28年「湊橋」と改称しました。
10月1日の放生津八幡宮の秋の祭礼に、13本の曳山がこの橋を渡る様は、勇壮そのものです。今から約400年前、この湊橋付近は富山湾内漁業の中心地でした。内川を根拠とした天然の良港は、北前船・能登通いの基地としても機能していました。また、諸国従来の舟も停泊したり、いろんな舟の出入りも多く、物資の交易市(いち)・魚市も盛んなところでした。
奈呉の浦大橋
内川で最も新しい橋で、平成5年5月に架けられました。西漁港と東漁港を結び、将来は湾岸道路にも関連していく需要な橋です。 高欄には波を、親柱には新湊名物の曳山のパネルがはめこまれ、中央バルコニーには万葉の歌のパネルが装飾されています。
橋の上からの立山連峰や二上山などの眺望も格別で、まさに臨海都市新湊を代表する優美で清悍な橋です。